剛腕といえば小沢一郎

剛腕ぶりを発揮

自民党の中で最大派閥「経世会」の会長代行に就任もして、小沢氏は実力者として周知の事実になりました。剛腕ぶりはさらにアピールされるエピソードもあります。小沢面接です。小沢氏の中で「数は力」だということを、誇示するとともに自民党を出て新党を作った際にも、いかにイニシュアチブを取るか。そして数のうえでどっちがいいのか。ということを常に考えて動いているでしょう。最大派閥のトップの立場にいることで、各派閥のトップ達がこぞって小沢氏に面会を求め、自分の意向が反映されることを良く知っているからです。

自民党幹事長を辞任の直後に、経世会会長代行に就任しています。経世会会長の金丸氏、そして派閥オーナーの竹下氏とともに「金竹小」体制で最大派閥の経世会をリードしながら、海部政権での実力者で引き続きあり続けました。しかし、次第に金丸氏は小沢氏に派閥を譲ろうと考えるようになり、竹下氏は首相へ再登板を狙っていたため、二人の間には確執が深まっていきました。そんな中で、小沢氏は狭心症で倒れ日本医大病院に入院して、そのときには40日余りの療養生活を送っています。

この年に、国会に提出した政治改革法案が廃案になったことから、海部首相が衆議院の解散・総選挙をぶち上げましたが、自民党内の反発を招きます。そして海部おろしが自民党内でおこり、海部首相は結局首相辞任に追い込まれました。その際に、金丸氏は小沢氏に対して自民党総裁選に出馬して首相後継を狙うよう命じます。そして金丸氏の意を受けていえた渡部恒三氏も小沢氏を説得していますが、小沢氏はその当時49歳という年齢と自身の心臓病を理由に総裁選への出馬を固辞しています。のちに小沢氏は「首相になりたいのであれば、この時になっていた」とたびたび発言しています。

最大派閥の経世会が、それぞれ独自の総裁候補を立てた場合に宮沢派・三塚派・渡辺派は「三派連合」で対抗する構えを見せていましたが、経世会が独自の候補を立てないことが明らかになると態度を一転して、三派がそれぞれ経世会の支持を求めて争うようになりました。そして10月10日に、経世会が支持する候補者を決定するために、出馬表明していた宮沢氏、渡辺美智雄氏、三塚博氏といった面々と、小沢氏は自分の個人事務所でそれぞれ面談したいわゆる「小沢面接」を行ないました。

このときは、竹下派の支持が事実上次の総裁を決定する状況にあったため、小沢氏よりも当選回数が上回ったり、または年齢で小沢氏を上回る派閥の領袖の総裁候補を自分の事務所に呼びつけて、次期首相を品定めするかのような振る舞いは「傲慢だ」と批判されるとともに、その当時の竹下派の権勢を物語るものと捉えられいます。

この「小沢面接」は今日に至るまで、「経世会支配」や「剛腕小沢」の象徴的シーンとして取り上げられています。

竹下派が分裂

1992年(平成4年)に「東京佐川急便事件」を巡って、金丸氏が世論から激しい批判を受けて経世会の派閥会長を辞任して、議員辞職もしています。経世会の後継会長には小沢氏は、金丸氏に近かった渡部恒三氏、奥田敬和氏と共に羽田孜氏を擁立します。一方では竹下氏直系の小渕恵三氏を推す竹下氏、橋本氏、梶山静六氏たちと対立することになりました。衆議院のほうでは数が拮抗していましたが、参議院は竹下氏自らが関与して小渕氏の支持を決定しました。この結果、金丸氏の後継の会長には小渕恵三氏が内定しましたが、この結果を小沢氏は受け入れることはなく、改革フォーラム21となる羽田派を旗揚げします。羽田派には、羽田氏、渡部氏、奥田氏といったメンバーとの旗揚げとなり、ここに自民党最大派閥の竹下派の派閥は分裂しました。

宮沢改造内閣での羽田派の閣僚ポストは、経済企画庁長官に船田元氏、そして科学技術庁長官に中島衛氏という閣僚は2つという冷遇をうけました。そして自民党幹事長には、竹下派閥の後継会長を巡り激しい闘争を演じた小渕派の梶山氏が就任したことで、羽田派は反主流派に転落しました。この転落に際して小沢氏は、主流派を「守旧派」と呼び、自らを「改革派」と呼んで自身の持論でもある「政治改革の主張」を全面に訴えていきました。そうした中で、小沢氏は5月20日に著書『日本改造計画』を発表していますが、この本は政治家の著作としては異例の70万部を超える売上を記録して、1993年(平成5年)を代表するベストセラーになりました。小沢氏は本で自らの政策や政見を広く国民に問う内容になっていて、小沢氏の理念を基に官僚や専門家を中心にして政策としてまとめた本になっていますが、本の中で提示された軍事面も含めた積極的な国際貢献、新自由主義的な経済改革、政権交代可能な二大政党制を可能とする政治改革といった主張は、1990年代以降の政治課題の多くを先取りしたものになっていました。

非自民党政権での連立政権

1993年(平成5年)6月18日に、野党側から宮沢内閣不信任案が出されました。そしてこれには、羽田・小沢派といった自民党議員39名が不信任案に賛成。16名が欠席する造反によって内閣不信任案は255対220で可決されました。そのため、宮沢内閣は衆議院を解散しました。そして3日後の6月21日に武村正義たちが自民党を離党して「新党さきがけ」を結党しました。この「新党さきがけ」の結党が、羽田・小沢派の議員に自民党からの離党を決断させる一因となり、小沢氏も6月23日に「新生党」を結成しています。

「新生党」を結成した小沢氏は党の幹事長にあたる党代表幹事に就任していますが、新たな党を結成した記者会見を行ったときにも会場に姿を出すことは泣く「党首の羽田の陰に隠れて暗躍している」という批判を受けました。新生党代表幹事時代には、番記者との懇談会やぶら下がり取材を断っていて、記者クラブに属さない国外メディアや週刊誌記者も含めた記者会見を報道機関との接点としました。そして事実でないとする記事を書いた報道機関を記者会見から締め出したために、公党の指導者は無条件で取材に応じるべきだとする、ジャーナリズムからの批判を招いています。

7月18日に、第40回衆院議選挙で自民党は過半数割れしました。そして新しく出来た新党「新生党」「日本新党」「新党さきがけ」といった3新党は躍進しています。宮沢内閣は総辞職することになりました。小沢氏は総選挙の直後から、日本新党代表の細川護煕氏と非公式に会談しています。細川氏は自民党との連立を検討していましたが、小沢氏から首相就任を打診されたことで自民党から非自民勢力へと傾斜することになりました。8月9日に、8党派連立となる「細川内閣」が成立しました。

細川政権

シャンパンで乾杯して就任を祝った細川政権が成立して、小沢氏は内閣とは別に与党の意思決定機関の「連立与党代表者会議」を開いて、公明党書記長の市川雄一氏とともに細川政権での主導権を握ろうとした一一ラインをを結びますが、細川政権での内閣官房長官の武村正義氏は官邸主導の政治を目論んでいたため、激しく対立することになりました。

「国民福祉税」という構想を1994年(平成6年)に、小沢氏と大蔵事務次官の斎藤次郎が中心となって、消費税を廃止して福祉目的での7%の税を創設するという構想を決定しました。そして2月3日の未明に、細川首相は突如として「国民福祉税」構想を発表しましたが、この発表は世論の激しい反発を受けることになっただけではなく、社会・さきがけ・民社といった連立政権を組む各党の批判に合ったため、発表の翌日に、細川首相は「国民福祉税」構想を白紙撤回するに至りました。

この時、細川政権で妻役にあたる内閣官房長官の武村氏は、取材陣の前で公然と「国民福祉税構想は事前に聞いていない」と発言しており、小沢氏と武村氏の間の対立はますます先鋭化することになりました。細川氏は選択を迫られます。それは「武村 OR 小沢」のどちらかを選択を迫られた形になりましたが、細川氏はこの選択で小沢氏に軍配を上げて、武村氏を外すための内閣改造を目論みますが頓挫してしまいます。細川政権の主導権を奪われた形になった武村氏や武村氏が率いる「新党さきがけ」は細川政権の中で孤立していき、武村氏と細川氏との間も急速に冷却しました。そしてこのような一連の動きに嫌気がさした細川氏は、突然の辞意表明になり「殿のご乱心」ともいわれる突然の辞意表明となりました。

細川氏の首相辞任を受けてて、小沢氏は渡辺美智雄氏との提携を考えますが、自民党に所属している渡辺氏は自民党の離党を決断できなかったため小沢氏のこの構想は頓挫しています。連立与党は羽田氏が細川氏の後継首班に合意していますが、1994年(平成6年)4月25日に首班指名を直後に、社会党を除く形で「新生党」「日本新党」「民社党」などが統一会派の「改新」を結成したため、これが社会党の反発を招くことになり、連立政権を社会党は離脱することになり、羽田内閣は少数与党になりました。

羽田内閣は1994年度予算を成立させてはあますが、少数与党状態の解消をねらって行われた連立与党と社会党との間で行なった政策協議は決裂したため、自民党によって内閣不信任案が衆議院に提出されています。当初は羽田氏も衆議院を解散する腹つもりで小沢氏もこれに同調していていましたが、結局のところ解散総選挙を断念しており6月25日に内閣総辞職したため、羽田内閣は在任期間64日という戦後2番目の短命政権に終わりました。

小沢氏は羽田氏の後継として、自民党幹事長のときにタッグを組んだことがある元首相の海部俊樹氏を担ぎ出すことを決めました。海部氏はこの当時、自民党政治改革議員連盟会長でもあり、新政策研究会(河本派)代表世話人でもありました。1994年(平成6年)6月29日に、自民党では内閣総理大臣指名選挙で社会党委員長の村山富市氏に投票する方針を示したため、自民党を海部氏は離党して、高志会・「自由改革連合」を結成して、連立与党の首班候補となりました。そして決選投票が行なわれましたが、小沢氏が担ぎ出した海部しは、261VS214で村山氏に敗れているため、このとき小沢氏は今までの政治家人生で初めになる野党の立場に落ちました。新生党内では、この野党転落の責任は小沢にありと小沢氏の責任を追及する声も出てはいましたが、旧連立与党を糾合して新・新党の結成を実現するためには小沢の剛腕が必要なのでは。となっていたため、責任追及の動きは大きな動きにはなりませんでした。

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